2008.1.31
今日、「人の噂も49日」と「人の噂も45日」って言葉を耳にしたけど・・・・
それを言うなら人の噂も75日、だよね☆と思って調べて見たら、現代は15日なんだそうです。次から次と新しいニュースがあって前の事はすぐに忘れちゃう・・・確かに。でも決して良い傾向じゃないよね。
それにちょっと関連した小話ひとつ。
村にひとりの老人がいた。彼は非情に貧しかったが美しい白馬を持っていた為に王たちでさえ彼を羨ましく思っていた。王たちはその馬に途方もない値をつけて手に入れようとしたが、老人はいつもこう言って断った。
「この馬は私の友人だ。どうして大切な友を売ることが出来ようか。お引き取りください」
老人は貧しかったが決してその馬を売ろうとはしなかった。
ある朝、馬が馬小屋からいなくなっていた。村中の人々は
「じいさんは馬鹿だ。いつかは馬が盗まれる事は俺たちにはわかっていた。早く売った方が良かったのに。ついてないね」
老人は言った。
「それは言い過ぎだ。馬小屋に馬がいなくなった、とだけ言えばいい。それだけが事実だ。他の事はすべてあなた方の判断だ。これが不幸なのか祝福なのか私は知らない、わからない」
村人達は変わり者の老人だ、と笑った。
ところが15日経ったある日、突然馬が帰ってきた。馬は盗まれたのではなく野山に逃げていたのだった。しかも12頭もの野生馬を一緒に連れて・・
またまた村中の人が集まってきてこう言った。
「じいさん、あんたが正しかった。これは祝福だったな」
老人はまた静かに言った。
「またしてもあなた方は行き過ぎる。馬が野生馬を連れて戻ってきた、とだけ言えばいい。それが祝福かどうかなんて誰がわかる?それは判断に過ぎない」
今度は村人は多くは言わなかった。が、心の中では祝福に決まってるじゃないかと思った
老人にはひとりの息子がいた。息子は野生馬を飼い慣らし始めたが、一週間後、馬から落ちて両足を折る大怪我を負った。また村人が集まって、いつものように判断して言った。
「やはりじいさんが正しかった。あんたはやつだけが頼りだったのに。不幸にもひとり息子が歩けなくなった。前にも増して貧乏暮らしだ」
老人は言った。
「あなた方は判断にとりつかれている。そんなに行き過ぎてはいけない。私の息子が馬から落ちて両足を折った、とだけ言えばよい。これが不幸が祝福かなんて誰も知らない。生はこのように断片だけでやって来て、それ以上は決して与えられていないのだ」
数週間経ち、その国は戦争に入り、村の若者達は残らず兵隊に取られることになった。老人の息子だけは残った。歩けなかったからだ。勝ち目のない負け戦で村中が嘆き悲しみ、老人にこう泣きながら言った。
「じいさん、あんたが正しかった。これが祝福以外の何というのだ。あんたの息子は歩けないかも知れないが少なくともあんたと一緒にいられる。俺たちの息子は永遠に帰って来ないんだ」
老人は言った。
「あなた方はいつまでもいつまでも判断し続ける。誰にもわからないというのに。あなた方の息子は兵隊にとられ、私の息子は取られなかった、とだけ言えばいい」
あるがままを素直に見る事。下した判断を絶対のものと思い込まないこと。
動いている限り成長する可能性があるのだから判断して成長を止めないこと。
人間万事塞翁が馬、にはそうゆう深い意味があるのだそうです。
自分の判断は正しいと主張したり、間違っていたと悔やんだり、うわさ話に踊らされたり。それをなくするのは思ったより心の力が必要だなぁ。あやのっち、頑張るべし☆